2023 0518

①-1意味のやりとり、味わうとかではなく別にゆったり喋ればいいというわけではない。お互いがお互いの響きに意識が投げ込まれたり出たりしているか。

 

①-2相手の話を遮らないというのは、一旦受け入れることである。けれど、飲み込めない。うんと言えば、自分を損なったり損をしそうなことは飲み込まない。飲み込まないから、相手の話を遮ってあぁこういうことですか?と受け入れる気なんか更々ないにも関わらず言ったりする。結局は業務を遂行する為の意味のやりとりしかそこでは交わされていない。だから、意味の通らない説明は聞いていられない。時間の無駄だと思ってはねつけてしまう。相手の説明がくどいときは、はい。はい。わかります。と高速で口走る。分かっていないところは、笑顔でごまかして相手がフレーズを変えて再度説明をしてくれるのも待つか、相手にその気がないならうまい時間のサボり方を探すことに注力する。しばらくしてから、再度聞く。大学を出て6.7年会社員をしてから、会社を辞めて全国を転々としながら生きている人と話したことがある。その人は相づちを入れるタイミングが自分の理解のペースと同期しているみたいに見えた。うん。うん。うん。自分は分かったから次を話してくれと言わんばかりの相づちだった。その人は、相手の言った言葉を自分の言葉に置き換えて相手の話の間に入れ込む。見ていて、そんなに気分のいいものではなかった。会社員時代に、忙殺されたがゆえに、そんな会話の構築の仕方が形成されたのだとしたら恐ろしいと書きながら思った。

 

①-3 すこし前の自分が、いまの自分をみたらガックリ来そうだと思う。それは会社員として働いていることに対してではなく、粗雑にお互いを扱いあいつつ、それを忘れたり互いの鈍さから時々の談笑で関係のピリツキが緩和されそれが普通になろうとしていることに対してだ。一日中、デスクワークをして帰ってきてからもパソコンに向かって文章を打っている。肩甲骨と背骨の間が、絞れて思い切る縦に引っ張れてているみたいに張っている。頭痛になると辛いだろうから、姿勢や身体には気を配りたい。

 

会社員になってから、言葉をずっと身体の手前で、ラリーを返している感覚がある。業務を遂行するため、説明を受けてそれに関する質問や上司からの受け答えなど、会社員としての自分は、仕事と他の職員との間の媒体でしかない。今やっていることはどこまで行ったのか。連絡はしたのか。などなど。これを書いていて学生時代に読んで、それ以後と呼べるくらいの本に出会ったことを思い出した。今でも大好きで、今日も10分ほど本自体を探して、該当箇所はものの10秒で見つけた。少し引用する。

 

西村佳哲『自分をいかして生きる』p.128-133「社会にはさまざまな矢印が錯綜している。いろいろな流行。新商品の情報。国の方針。勤めている会社や上司が投げかけてくる期待や、業務上の目標。環境問題など、その時々の社会倫理。あっちだ、こっちだと指し示している。間に立っている<自分>には<自分自身>と<社会>の両方への対応が求められる。情報処理能力の高い人は<社会>の各種矢印にも率先して対応してゆく。働き者として。あるいはトレンドの実践者として。ただし過剰に適合しすぎて立ち位置が社会のほうに偏ってしまうと<自分自身>との距離は遠くなり 、内面の人間関係は疎かになる。たとえば、「本当はやりたくない」仕事をやらざるを得ないような時、自分の実感を感じていると、働き続けるのが困難になる。こうした時、耐え難さを味わうことができればそれは滋養にもなり得ると思うが、味わう前にそれを「ない」ことにして、とりあえず仕事を続けるための心理状況が確保されることもあるだろう。言い方が悪いけど鼻をつまんで働くというか、<自分自身>に対する感受性にツマミが付いていたら、それを0の側へ回して入力を絞るようなこと。問題はこのツマミが家庭用とか、仕事用とか、恋人用といった具合に細かく分かれていないことだと思う。個人的な経験からの見解だが、仕事における感情回路の遮断は、そのまま全体的な実感の喪失につながりかねない 。(中略) ところで社会の矢印群は、都市化や情報化の進展にともないますます大きく膨らんで、間に立っていたはずの<自分>も飲み込んでしまいそうだ。 (中略) 通勤や通学中のちょっとした時間の隙間にも、メディアを通じてさまざまな矢印が私たちのもとに届く。テレビは異なる感情を刺激する情報を次々に映し出す。自分が感じていることを感じる間もないような矢継ぎ早さで。テレビを見ない人が増えている背景には、その分裂さ加減と過剰性に、もうこれ以上付き合えないという気分の強まりも大きいんじゃないか。デジタル化されてインタラクティブになったところで、本質的なテレビ離れは終わらないだろう。自分が感じていることを感じようとしないで、外側の要求にばかり対応している人の姿には、どこか寂しさがある。それはその人の内面における、本人と本人自身の関係性から生じているのだと思う。」