2023 0516

  昼休み、いつもの公園で弁当を食べた。気に入ったベンチに先客がいたから、空いているベンチに腰をかけてお弁当を開いた。 公園は日の光で、目の前が白っぽく見えた。日陰に入ろうかなと周囲に目をやった。日陰で空いてるベンチには、鳩にエサをあげてるおじさんがいて無理そうだ。ぼくは鶏飼ってていることもあり、鳥類にパンはあげてほしくない。どうせやるなら、米とか 玄米をあげてほしいなあと思った。そのベンチの近くのブランコに、高校生ぐらいの男の子2人が横並びで座っていた。2人はなぜか陰の下に入ることに成功していた。日光を遮るものが何もない場所に設置されているブランコに陣取って、なぜ陰に入ることができるのか理解不能だった。ちょっと上に、目線をやると彼らが何故影の下に入ることができているのかが わかった。というのも、鎖で座板を吊り下げている支柱に開いた傘を開いて乗せていたのだ。要は、ブランコの支柱と傘でパラソルを制作していたのだ。度肝を抜かれた。乗ってきた自転車もカバンも全部放置して2人はどこかに行ってしまった。しばらくして、お菓子か何かを食べながら公園に戻ってきた。

 

 

「その日以降、ゲルマントの方を散歩するとき、以前よりいっそう嘆かわしく思えたのは 私に文学の素養がなく、いつか有名作家になる夢は諦めるほかないことだった。ひとり離れて夢想にふけると無念の思いに苦しめられたから、私の頭はそんな思いをしなくてすむよう 苦痛を前にいわば自己規制をかけ、詩句や小説はもとより、才能の欠如ゆえに当てにできない詩人としての将来などはすっかり考えるのをやめた。すると、このような文学的関心から離れ、それとなんら関係なく、突然、とある屋根や、小石にあたる陽の光や、土の道の匂いなどが私の足をとめ、格別の喜びをもたらしてくれた。それらが私の足を止めたのは、目に見える背後に隠しているように感じられるものを把握するよう誘われてながら、いくら努力してもそれを発見できない気がしたからである。それは対象の中に存在するように感じられたから、私はじっとそこにとどま、 目を凝らし、においをかぎ、我が思考とともにそのイメージや匂いの背後にまで到達しようと試みた。祖父に追いついて散歩を続けるほかないときは、目を閉じてそれをふたたび見出そうとした。 私が、屋根の線や石のニュアンスなどをなんとか正確に思い出そうとしたのは、 なぜかわからないが、今にもそれらの蓋が開いて詰まっている中味を引き渡してくれるように思えたからである。もとよりこの種の印象は、いつか作家や詩人になるという私が捨て去った希望を取り戻してくれたわけではない。そうした印象と常に結びついていたのは、知的関心のない、いかなる抽象的心理とも関係のない特殊なものだったからである。それでもそれらは、すくなくとも説明のつかない歓び、実り豊かな幻影をもたらしてくれたから、私が偉大な文学作品のための哲学的主題を探し求めるたびに感じていた憂鬱や我が身の無力感に悩まずにすんだ。しかし、このような形や香りや色の印象が私に課した、その背後に隠れているものを見出すべく努めよという良心の義務はあまりにも過酷で、すぐに私はこの努力や苦労を免れる口実を見つけ出す 。さいわい両親が呼んでいて、いまはこの探求を続けても成果を得るに必要な平常心が備わっていないのだから、家に帰るまでは考えるのをやめ、前もって無駄な苦労をしない方がいいと感じるのだ。こうしてある形やある香りに包まれた未知のことがらに関わるのをやめると、心が安らかになった。 さまざまなイメージで覆われ保護されていれば、それらを生きたまま家に持ち帰れると考えたからで、釣りに行かせてもらった日に、魚籠に入れた魚に草で覆いをして新鮮なまま持ち帰ったのと同じである。ところがひとたび家に帰り着くと 、もう私は別の事を考えている。そんな訳で私の頭の中には(私の部屋に、散歩の時に摘んできた花や人から送られたものが溜まっていたのと同じで)、反射光の戯れる小石とか、とある屋根とか、鐘塔の音とか、葉の匂いとか、さまざまなイメージが山積みになり、その下では、予感されはしたものの充分な意志を欠いたために発見できなかった現実が、ずいぶん前から死滅していたのである。」

プルースト失われた時を求めて』p381- 383