2023 0515

「夜にその日にあったことを、書く」というスタイルで続けてきた。夜を定点に、その日の出来事や出来事に触れて生じた自分の感情を眺望すると、どうしても内容が足りない。というか寝るまでの時間に何かを書くために自分の手持ちの言葉で得意かつ慣れ親しんだ文脈で文章を設計してしまっている気がしてならない。どうしても「若さ」「躓き」「出会い」みたいな想像力を素に明日を生きるための言葉を綴ってしまう。それもそれでダメなわけではない。事実、「今日も何かを書くことを続けることができた」という自己充足的な悦びがある。ただ、それだと、そのワードというか同じ切り口でしか生きていないことにならないと思う。だから、日中にメモをとることにした。「だから」という接続が可笑しい気もする。とりあえず、「夜にまとめて書いてしまう」ことが自分にもたらす作用を、解毒するために「日中にちょっとづつ書く」ことを今日は試してみた。ここまで書いたことは、いま(PM22)考えてかいた。

 

①昼休憩がすぐ終わってしまう。今日はもう帰って寝ようとかの気分の日だ。朝から嫌なことがあった。電車に乗車しようと足を踏み入れた瞬間から、僕の後ろに並んでいたおっさんがカバンを僕の臀部に押し付けてきた。進みたい方向が同じかつオッサンにも立ちたいポジションがあり、前にいる僕を奥へ押しやりたかったのだろう。それか、自分の行きたい方向に僕がいたから邪魔で押しのけて自分のいたい場所に行こうとしたんだろう。「なんすか?」と言ったが反応は無かった。午前中はそのことを反芻してイライラして明日もいたら注意してやろうと思ったり、そいつとは違う車両に並ぼうとかおもったけれど、車両を変えたところでまた違う嫌なやつがいるだろうし、同じところに並ぼうがそのオッサンに限らず嫌な奴はいる。

 

②「カッ プシュ ピチャピチャ」帰りの電車で音がした。その方に目をやるとオッサンが通路の床に白い雲を作っていた。それが、一瞬でビールだと分かった。そう。オッサンはビールを零していた。「えへへ すんません」と後頭部を搔くみたいな表情で近くの人に、頭を下げていた。俺は思った。「おっさん、煙になってここから消えたいと思ってるやろうな」と。こういう類いの失敗は俺にも経験がある。たとえば、イヤホンと携帯が繋がっていなくて自分が聞いている音楽で車内放送をしてしまう。あれは恥ずかしい。話を戻す。オッサンは持っていた新聞もビチョビチョにしていた。そのまま新聞を読むオッサンは、恥ずかしくて紙面で顔を隠しているみたいにみえた。新聞に続き、オッサンにはもう一つの作品がある。冒頭に紹介した泡で作った雲だ。これは通路の床で静かに佇んでいた。そうこうしている内に電車は停まり、人が乗ってきた。その乗客たちは、おっさんが作った白い物体を前に、怪訝な顔で距離を取っていた。