2023 0504

午後から図書館にいった。地元の図書館だ。受験生のころ自習室の使用するために頻繁に通っていた時期がある。自習室で昨日の続きに取りかかった。合間の休憩は、図書館を出て直ぐのところの河川敷のベンチに座った。そこから王将やすき家が見える。ここに座って、この景色を5年とか10年後になって見る頃には、どうなっていて何を考えているのかなと17歳のころ思っていたことを思いだした。そんなことを思っていたことも忘れてしまっていた。思っていたことを全部覚えていたい。日記は追憶の術としてかなり有効だと思っている。けれど、言葉は世界を文節する行為だから、過去に過した時間の質感を完全にリプレイすることは難しいんだろうと思う。17歳のころは、本なんか読まなかったし、国語の時間は苦痛だった。受験のときは成績が伸びなくて困った教科のひとつだった。それが今日は、肩の力が抜けた状態で自習室のなかで過ごせた。けれど、ボールペンで○をリズムよくつける音は今も苦手だ。受験は、赤丸の多寡で他人を蹴落とす営みだ。他人が丸をつける音は「置いていかれる」という焦燥を煽る。だから苦手なんだと思う。受験生でもないのにおかしいなと思った。今日は体中が痒かった。汗をかいたほうがいいと思う。帰り際に、乙川優三郎の『太陽は気を失う』を借りた。著者のことは何も知らなかった。装幀が好みだったから手に取った。前は確か吉本ばななの本を借りて2.3ページ読んで期限が来て返した覚えがある。表題にもなっている短編「太陽は気を失う」には3・11のときに北茨城で被災した主人公が出てくる。読んでいて、まず茨城県が被災地域だったことを始めて知った。検索をかけると「忘れられた被災地」という言葉が出てきた。

 

memo

和歌山に生まれ育って、中2で奈良に引っ越した。中高大と大阪の学校に通った。僕には「地元」というものが存在しない。「駅前のファミレスに集まったりする地元の友達」への希求が恒常的にある。 

 <ここからは何となくで書いている>

日記は自分自身を「地元」に出来てしまう。時間の連続性をもっていて、読み返して反復できる。これって昔からの友達と同じエピソードをなぞって何回でも笑えるのと構造が似ている気がする。地元を持っていない「根無し草状態」は、どこかで接地点を見つけようとする。日記とか、もっとそれ以前の言葉が世界と自分をつなぎ止めている気がする。自分の確かさというか。