2023 0429

 「ハイネは『旅さまざま』のなかで、ヒルシュ・ヒアツィントという1人の貧乏な人物を登場させている。彼は大金持ちのザロモン・ロートシルトに会ったときのことを自慢し、「彼は私を対等に、全くfamilionarに扱ってくれた。」と語る。familionarはfamiliar(親しい、家庭的な)とMillionar(百万長者)が結びついてできた単語である。フロイトはこれを圧縮と呼び、無意識の1つの機制としている。ハイネは詩人としてこの言葉を創造して1つの機知を作りだしたが、彼が詩人ではなかったならば、この会話は散文的なものとなっていただろう。(中略)  ところがヒアツィントfamilionarというとき、状況は全く違ったものとなる。それは聞く相手の笑いを呼び起こし、相手は納得し語り手に1つの承認を与える。(中略)ところがfamilionarのような言葉はハイネが創作した新造語であって、辞書のなかには見つからない。言葉の規則という観点からすると、造語は1つの違反、もしくは間違いに相当する。」

                       向井雅明『ラカン入門』p,61~63

 

 以上の文章を読んで、川端康成の『山の音』の一節が想起された。

 

 「町は月の光なので、信吾は空を見た。」

                       川端康成『山の音』p,122

 本ブログの3月12日の日記には、「「町は月の光なので」という文の組み立てにビックリした。美しい表現だと思う。不思議だ。」と綴った。familionarという造語が人の笑いや納得を生んだのと同じように、川端の「町は月の光なので」という文は僕を魅了した。「町は月の光なので」という言葉のつなぎ方には、違和感がある。だけれど、散文的な状況説明よりも、その情景が持つ色彩を損なわずに言葉に内包することに成功している。僕が小説を読むようになったのも、そこに対する感動があったからだと思う。    

 また、フロイトラカンに代表される精神分析が文芸を分析するための理論として用いられている理由が少し見えた気がしている。