2023 0410

鶏小屋の完成が見えなくて、苦境を強いられている。

夜は友達2人と難波に飲みに行った。席についてから、2人はラインを返したり、上司から電話がかかってきたりしていた。業務時間外に電話してくるのは、ナンセンスだと思った。少し淋しい気分にもなった。「音楽なに聞くん? カネコアヤノ聞いてそう。」と言われた。その言葉になにかしらの意図が含意されていた。「聞くよ。めっちゃ好き。」と言っておいた。彼女は、あんまり聞かないようにしていると言った。僕がプロ野球を見ないのと同じ感覚で彼女はカネコアヤノを敬遠していると勝手に解釈しておいた。もうひとりの男は、「好きだったら聴くし、見る。興味なかったら見ないし、聴かない。それだけやけどな。」と言っていた。一件目は、焼き鳥屋だった。お皿に並ぶ串を手にとって食べた。「えっ」と男の方から言われた。何に対する「えっ」なのか判然としなかったから、「えっ。どうしたん。」と返答した。「それ、さっき皆でどれを食べたいか指を差して、おれが指したやつやで。」と言われた。やっと気がついた。2人が、お皿に並ぶ焼き鳥を指さして「○○!○○!」と言っていたのは自分が食べたい串を指さしていたのだった。自分で自分に辟易とした。2軒目には、その男と2人で行った。当初の目当てだった豚足を食べられる店が、店じまいを始めていた。気を改めて餃子の店に入った。2人で餃子をつまみながら向こうが、「鳥取なんで出たん?」と尋ねてきた。理由はペラペラ言ったけれど、空転している感じがあった。率直に、「大工仕事で腰が痛くなるのが嫌だったから。」と言えば良かった。相手がそれをきいてどう思うかを気にする以前に、正直な理由を話さないことには空転した感じは治まらない。呑んでいると、その場にいない人にも話が及ぶ。僕が好印象を抱いている人を「自然系な、フェミニストみたいな感じやと思ってた。」と彼に言われ返答に困った。彼から見てそう見えているならそれも1つの見方である。彼の返答に対してぼくは、「それは、その人のことを分かっていない。」と思うと同時に、「おれはその人の良さを理解できる。」という優越を自分に感じた。安易な言葉の羅列で、他者をラベリングしてしまわないように気をつけたい。「偏見」が人気を博しているくらいだから、ラベリングする快楽も当然ある。あと、人のことをもっと知りたい。今まで、こんな欲を抱いたことが無かった。だから、その欲に対してすごく新鮮さを感じている。