2023 0603

<memo >車で15分の場所にいるコメダ珈琲に来てこの文章を書いている。やっぱり週に1回しか休みが無いのは辛いものがある。1日やるから、その時間の間に身体を休ませてまた業務に戻れということである。自分の手元に資本がないから、労働力を片手に資本家(会社)の下に集まった僕ら。二重に疎外されている。土地からも労働からも疎外されている。マルクスは、こんな感じのことを言っていた。私はマルクスの著作を読んだのではなくマルクスを読めてしまう賢人たちの本から部分的に習った。この怒りというかこんな環境を捨ててやろうと志向する何かが自分のなかにあるのには、理由っぽいものをみつけつつある。まだ仮定だけれど。自分の時間というか週に1日しかない日でうまく自分を取り戻すというか、隣のおっさんうるせぇ。違う話をする。客観的な時計的で数量的な時間の総量が少ないことが単に問題であるのではなく、そこで過される主観の意識の流れが数量としての時間に巻き込まれてしまうことである。サザエさん症候群にも診断を下そうと思う。あれは、月曜の朝に起きるまで時間を嫌が応でも意識させる。いや何を書いているのいか分からない。というか核から遠ざかっている。すごい具体的な話に戻してみる。朝6時に起きて、7時に出発して8時前には会社についてPCに電源を点けて、12時から13時まで昼休みがある。晴れていれば公園に行く。その時に携帯とかをいじり倒してしまうと、急に焦ってくる。休んでいるはずなのに全然休めない。かといって携帯をいじらないことで生じる空白への予期不安で携帯をポチポチとやってしまう。実際に携帯をいじらずに、昼食に集中してみると。というかまず飯に集中するって何なんだ。飯に集中するなんて、飯に集中しない時代なんて人類史で見ればごく最近の話だ。携帯をいじりながら歩いて飯を食べて、携帯を気にしながら映画をみて。たぶん、僕自身がそういう方向に舵を切ってしまうと、自分がもうどこにもいなくなりそうだ。自分に流れ込んでくる短い映像や言葉に反応するだけの入れ物が出来てしまうような気がする。だから、歩くときは足の運びや膝が今日は痛むなぁとかどっかで刈草を焼いているなとかを、やっておく必要がある。こんなことを意識してやらなくちゃいけない時代に生きている。あとは、19時までに家にいることができれば仕事をある程度は続けられそうだなと思う。とりあえず、自分しか自分のなかにいないというか、広くて静かで周りを見回すことが、そのまま自分を見ることになる時間や空間、あるいはそれの混合物を埋め込んでやるというか。今日はコメダに来て正解だった。こんなにズラズラと書いたけれど、自分の感じたことをそれに照合する言葉で書くだけでは、足りない。自己充足的なことをやるのも好きだけれど、やはり伝える言葉、声、論理の組み立て、話し相手との関係を絶えず希求する。それを求めていない人にそれをやってはマズいことも理解しているつもりなので安心願いたい。あっホームページを作ってみたい。