2023 1003

「 翌朝散歩に出るとマレーグマはまだ奥の穴の中で毛布をかけて寝ていたが、隣人のツキノワグマは岩の上に出ていた。早速「わたし」という言葉を使ってみることにして、咳払いして関心を引いてから、「わたしがクヌートというものだが」と言うと、ツキノワグマは小さな目を凝らしてじっとこちらを見て、「カワイイ!」と叫んだ。「カワイイ」というのは、ひょろひょろしたホモサピエンスの若い牝たちが主に使う言葉なので、岩のようなツキノワグマまでそんな言葉を使うなんて意外だった。「それは何語なんですか?」「わたしの祖母が生まれたサセボという国で話されている言葉。でもここでも時々聞く言葉よ。」「それで意味はどういうこと?」「取って食ってやりたいくらい愛らしいということ。」これを聞いて、わたしはあわててその場を立ち去った。(中略)散歩はいつも勉強になるけれど、勉強というのはどうも心に傷を残すことも多く、帰るといつもくたくたになっていた。自分のことを三人称で呼ぶのは赤ん坊だとか、取って食ってやりたいとか、とにかく他者の言うことを聞いていると、我が身の危険を感じずにはいられない。しかも「わたし」という言葉を使い始めてから、他人の言葉が身体にまともにぶつかってくるようになってしまった。疲れて眠い時には、マティアスと二人きりでいられたらどんなにいいだろうと思う。二人きりでいると、まるで一人みたいで、「わたし」という名の新しい重荷を肩から下ろすことが出来る。でも一眠りしてまた元気が回復すると、マティアスと二人だけで遊んでいるよりも、外の世界に出て行ってみたくなる。」

                      多和田葉子『雪の練習生』p,265~267