2024 0814

A

彼女のパダボルン大学詩学講座を読んでみると、Schrei(シュライ=叫び)とSchreiben(シュライベン=書く)が並んでいる。音的に見ても、意味的に見ても、書くことは叫ぶこととと複雑な関係にある。でも、実際に叫びを文字にできるのは、少しは恵まれた環境にある者だけである。自分の受けたい教育を受けることができ、小説や詩をを書いている余裕のある環境に育つことは、どちらかというとめずらしい。多くの者は、叫びたくても声を持たないので、眼ばかりを大きく見開いて、人間たちが壊れていく様子をまのあたりにしながら、聞こえない叫びの中で死んでいくしかない。又、書く代わりに本当に叫び始めてしまったら、精神病者ということにされてしまう。書くことは叫ぶことではない。しかし、叫びから完全に切り離されてしまったら、それはもう文学ではない。叫ぶことと書くことは切っても切り離せない関係にある。この二つの単語は、言語学的にみて語源が同じなのではなく、一人の人間が生きてきた過程でもう離れられないくらい密接に結びついたものなのである。」

 多和田葉子『エクソフォニー ー母語の外へ出る旅』岩波現代文庫、2024年 p.28

 

B

夜と言っても深夜のほうが神経由来の痛みが、少ない。何と言っても絶対的に静かで、自分が夜という地から図として引き立つ感じがして、意識が明晰になってくる。朝が近づくと、蝉が鳴き鶏も鳴き出す。車が目的地に向かって進み出すし、日光に当ったもの全部の温度が上がり出す。その間、僕は寝ていたい。静かになったらムクッとおきて自分で自分の灯をともす。何かを恨んでも失った全体性が帰ってくることはない。身体の健全さ、全体性を前提にして成り立っているものが溢れている。僕は見た目上、その真逆を生きているように人から見えると思う。痛みは表情を歪ませることはあれど、肌つやまで奪うことはしなかった。痛む身体にはただ、痛まないというネガティヴな差異が対置されているだけだ。痛まない時間にすべてがかかっている。その痛まない時間が深夜にあたる。